父と私と化学

娘は今高校1年生。

私が高校1年生の時、父はどんなだっただろう、と思い出してみようとしてもよく分からない。当時の自分は、世の中に興味を持ち始め、地域の進学校に通い、学力的には同じレベルの同級生に囲まれて、自由と強烈な刺激を受けていた。

毎日の興味は、家族とのことよりも、完全に学校でのことの方に中心が移っていた。

父との特別な会話の記憶がない

今思うと、あの頃もっと話をしていたらよかったかな。と少し残念に思う。

だが、娘を見ていると、父親との距離というのは、難しい。

高校生の3年間は、あっという間に過ぎてしまう。そして、大学生にもなれば、手元から離れていく。親離れ、子離れまであと3年もない。

事実、私は、静岡県から筑波大学に進学し、親元から離れた。そして、また同じような、それでいて個性の異なる同級生と知り合い、その世界が中心となった。帰省もそれほどしなかった。

父親として思うに、子供が高校生になったら、必然大学のことを考えざるを得なくなる。就職してくれれば、家計は楽になっただろうが、私はそのようなことに全く頓着しなかった。文字通りの幸せ者だった。

化学の道を選んだきっかけ

大学一年生の時、電磁気学や量子力学の面白さに触れて、物理学に興味を持った。物理の研究も面白そうだ、と思った。夏休みには、ブルーバックスの古本を買い込み、量子力学や原子核物理学の入門書などを読み漁った。

物理学を専攻しようかと思う、と父に相談した時、「物理では食っていけないぞ、化学にしとけ」とコメントをもらった。当時はまだ日本の家電・半導体産業は、世界を席巻していた。「電子立国」とNHKでは番組を組んでいた頃だった。物理学は好きだったけど、電気・電子業界、半導体業界にはまるで興味も、憧れもなかった。

夏休みが過ぎ、秋がきた。秋から化学の実験が始まった。

これがめっぽう、面白かった。

受験勉強では、物理も化学も勉強したが、総じて化学の方が打率が良かった。化学の勉強は全然苦ではなかった。様々な事実を積み上げて、その背景にある共通性を探ったり、存在しないならば作ればいい、という発想も好きだった。

基礎科学で、「物質」を作ることができるのが、化学の特権だった。実験装置も、特にガラス細工などは自分で作らなければならなかった。あるものをとことん使い、ないならば作る。この姿勢は現在自分の中で生きている。

父にしてみれば、何気ない一言だったのかもしれない。農業指導員だった父は、農薬や肥料など、化学面の知識に苦労したのかもしれない。そして、化学は物質のルールを語ることのできる特殊言語のようなものなので、これをマスターすれば、食いっぱぐれないだろう、ということがわかっていたのかもしれない。

化学のおかげで苦労しなかった

金融業界のように、高給を謳歌することはないが、あまり大きな浮き沈みを経験することなく、転職でも苦労はしなかった。化学のできる人間はそれほど多くはないが、いつでもニーズはしっかりあった。

妻も、化学専攻。仕事で多少の苦労はあったが、分析など、化学ができる人間のニーズは常に。

大きなトラブルもなく、なんとか仕事を続けていられるのは、化学を専攻したからだろう。それだけでなく、

  • 「ないものは作ればいい」という発想
  • 事実を積み重ねてその背景にあるルール、法則を探るという手法は、問題解決において、大いに役立った。

父からの一番のプレゼントはなんだったか、と問われれば、あの夏の何気ない一言だ。

「物理では食えない。化学なら食えるぞ。」

今日は父の誕生日だった。が、もう6年以上、祝うことはない。ただ思い出す。

でも、それが一番のことなのかもしれない。

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